人工知能学会の表紙のメイドロボットを考察したら深すぎた


こんな話題を目にした。

人工知能学会の表紙は女性蔑視?(togetter)
人工知能学会表紙批判への反論、を片っ端から論破していく(はてな毒名ダイアリー)

一般社団法人の人工知能学会が発行する学会誌「人工知能」の表紙が、女性蔑視的だと批判を受けたのだ。それに対し、「さすがに考え過ぎだろう」との批判がさらに重なり、ちょっとした炎上騒ぎになっている。

さて、件の画像とはどんなものだったのだろうか。まずはご覧いただきたい。

かわいらしい容姿の女性が箒を手に、本を片付けているように見える。よく見ると腰にケーブルが接続されており、それでやっとロボットだとわかる。まるでライトノベルの表紙のようで、一見ではとても学会誌とは思えない。

学会の同記事によれば、“今回のデザインは、「日常の中にある人工知能」というコンセプトで、掃除機が人工知能になっていることを表して”いるそうだが、それにしてはおかしな点が多い。

なぜ、掃除という単純な機能を果たすためにわざわざ人型、それも見目麗しい女性をかたどったロボットである必要があるのか。高コストではないか。なぜ、箒というレトロな道具を持たせているのか。現代人でさえ掃除機を使うだろう。なぜ、背中にケーブルが刺さっているのか。これほどのものが作れる技術があるのであれば、バッテリーは当然内蔵であろう。これではルンバより劣っているではないか、といった点である。

たしかにこれでは、「かわいい女の子型メイドロボットを作って言いなりにしたい」という男性的欲望が透けて見えると指摘されてもしかたがないように思える。

しかし、少々待っていただきたい。相手はなにしろ「学会誌」であり、コミックマーケットで売られている同人誌ではないのだ。そんな浅はかで下賤な理由でこのような表紙になったとはいささか信じがたい。

コンペにより決定したイラストだそうだが、やはり人工知能学会としても葛藤があったようだ。同記事中にもこんな記述がある。

もっと「おとなしい」デザインもたくさんありましたが、投票で1位になった今回のものは、予想していたものよりもずっと大きな変更を伴うデザインで、正直、学会誌の表紙としてふさわしいのだろうかと悩みました。歴代の会長や現在の会員の方がどう思うだろうかも思い悩みました。

おそらくこの表紙に決定するまでには幾度とない熟議が重ねられたことだろう。単純に「かわいらしい」「目を引く」といった理由だけで選定されたとはとても思えないのだ。もっと深い意味が込められている気がしてならないのである。

改めて、この表紙を眺めてみよう。

まずは時代背景を考えたい。ケーブルさえなければ人と見紛うほどのロボットが、研究室ではない普通の書斎にいるくらいだから、数百年は先の未来であろうと推測できる。そうすると、箒やケーブルなどの他にもおかしな点に気がつかないだろうか。

そう、メイドロボットが手に持ち、また背景にも無数に存在する紙の書籍である。

現代でさえ、紙の書籍はKindleなどの電子書籍に押されて存亡が危ぶまれているのだ。数百年先の未来には紙の書籍はほぼ絶滅し、一部好事家の収集対象となっているはずである。これはSFファンならば常識だ。その貴重で希少な本が、個人宅の一室にこれほど所蔵されているわけであるから、家主はよほどの大富豪に違いない。

「そら見たことか。箒やら美女型ロボットは金持ちの道楽で行われていることであって、これは奴隷的女性を求める男性の願望を如実に表しているのだ」

そんな結論に飛びつきたくなるだろうが、いま一度待っていただきたい。それでは理屈に合わない点が存在するのだ。

それは、腰から伸びるケーブルである。

誰でも経験があるだろうが、掃除機を使っている際に電気コードが思わぬものに引っかかり、何かを落としたり、壊してしまったりするのは珍しい事故ではない。それで大切なものを失った人も少なからずいるだろう。表紙の部屋は、家主が大事にしている稀覯本が集められているのだ。そんな場所にケーブルつきの掃除ロボットを放つコレクターがいるものだろうか。いくら高性能な事故回避装置が備えられていようとも、コレクター心理からすれば、ほんのわずかなリスクでも孕んでいる限りはこのような愚行を犯すはずがない。非常に考えづらいシチュエーションなのである。

これは一体どのような状況なのだろう。それに答える前に、もう少しこの表紙が示す時代について考察をしてみよう。

相当に技術の進んだ数百年先の未来であることはすでに述べた。きっとその世界では人工知能はすでに人間を凌駕しており、また人間と同様に喜怒哀楽を持っているだろう。アシモフのロボット三原則が順守されているかはわからないが、それほどの存在となった人工知能には人権に相当するものが与えられていると考えて当然だろう。

何を馬鹿なという人は、リンカーンの奴隷解放宣言がほんの150年前であることを思い出していただきたい。「黒人は人間ではなく家畜である」という価値観が当時の常識であったが、今日にあってはそんな考えをするものの方が異端である。人間の常識とはたったそれだけの期間で変わるのだ。「ロボットは人間の道具である」という現代の常識が、数百年先の未来では通用しない可能性は高い。

ロボットが人権を有している以上、表紙の女性型ロボットは労働による対価を得ているはずである。奴隷的な身分で無償の奉仕を強いられてはいないのだ。金持ちの所有物などではなく、ひとりの独立した個人として誰にも隷属せず自ら稼いで生きているのである。

これで表紙の状況がやっとわかる。コレクションの詰まった部屋で、他人や奉公人に無作法を許さない者であっても、自身はその対象とはならない。表紙のイラストは、愛する稀覯本に囲まれた自室で、食事(給電)を楽しみながらくつろいでいる姿だったのである。すなわち、裕福な家主とはこの掃除ロボット自身にほかならないのだ。

だが、掃除ロボットである彼女にそんな大層な資産が作れるのだろうか。なにしろ数百年先も未来のことだ。どんな家屋であっても、汚れは部屋中を徘徊するナノマシンやゲル状人造生物によって常に清掃され、文字どおり「埃一つない」状態であるに違いない。そんな社会で箒などという過去の遺物を振り回したところで稼げるはずもないのである。掃除するべき場所がないのだ。

彼女はどうやって収入を得ているのだろう。じつは、いかにも時代遅れな箒にこそヒントがあったのだ。

茶を飲むことが茶道になったように、文字を書くことが書道になったように、ある事柄が歴史を経て芸術に昇華されることは少なくない。未来においては古典掃除が芸術として昇華されており、彼女はその掃除道において大家なのである。大量の稀覯本を所蔵できるほどの富を得ているのだから、ひょっとすると創始者であるかもしれない。

掃除が芸術になどなるものかと疑う方は多いかもしれないが、禅宗においては掃除は修行の基本であるとされており、また近年の著名な経営者にも掃除を修養の一環として勧める者は少なくない。イエローハットの創業者鍵山秀三郎氏は「掃除の道」というDVDを発売されており、これは未来における掃除道の源流であると考えてよいだろう。イエローハットの本社に勤めていた知人によれば、全国から掃除道を学ぶためにやってくる研修生が後を絶たないそうだ。掃除には芸術足りうる素地がある。

ここまで来ると、「彼女」が見目麗しい女性の形をとっていることにも合理性が生じてくる。便宜上、かの掃除道大家である掃除ロボット氏を女性代名詞で表してきたが、そもそもロボットに性別は存在しないのである。そして、ロボットの外装は簡単に変更できる。

きっと彼女(?)は掃除の美を究めんがため、表現活動の一環として自らの外装を美女に変えたのだろう。おそらく、形態は掃除の型や演目によって最適なものに変更をしていると思われる。書斎の掃除であれば美女、道路のゴミ拾いであれば老経営者、廊下の雑巾がけであれば小坊主……といった風に。

つまり、学会誌「人工知能」の表紙には、人間の特権であるように思われているクリエイティビティや芸術性でさえ、人工知能の発展の末には凌駕されうるという驚くべき主張が隠されていたのだ。このようなことを大っぴらにいえば人間至上主義者による弾圧・反発が必至であろうから、論文・論説による主張ではなく寓意を込めたイラストとして公開したわけである。

読み解きを行った私がいうのも何ではあるが、いくらなんでもこの表現はわかりづらすぎるだろう。女性蔑視の意図がないのはこの記事を読まれた方にはすでに明らかであろうが、それを理解できず非難をする人が現れたのもまた無理からぬことだ。

結論として、この記事で私が伝えたかったのは、深読みも極まればいかような解釈を引き出すのも自在なのだということである。

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人工知能学会の表紙のメイドロボットを考察したら深すぎた” への2件のコメント

  1. 実際に制圧された経験や立場を知るひとにはそう見えるのは仕方が無いと思います。
    大事なのは何を描いたかではなく「多くの人にどう見えるか」ですから。

    でも、私には「本を読んでいる大人しそうな女性=「賢く音が静かな掃除機の擬人化」で
    「人工知能を搭載した掃除機がまるで思考する人間の様に掃除をしてくれる事を
    イメージ的に表現」している様に見えましたけど。未来のスマート家電!的な。
    本があるとおり「わりと近い未来」だけど掃除機は実際はこの見た目ではないから実現可能。
    本当にロボットやメイドである事を前面に出していたら、もっとメカメカしいものか
    媚びたデザインになっていただろうからその線は意識すらしませんでした。
    同じものでも人によって見え方が違うという好例でしたね。

    • コメントありがとうございます。

      誰の言葉かわかりませんが、「人は見たいものを見る」というのは真実なのであろうなあと。反発している方の中でこの絵で描かれた人物の瞳を「うつろな目」と評している方が何人かおられましたが、私にはきょとんとしているようにしか見えませんでした。

      絵画やイラストは解釈の余地が大きい表現形態ですので、発表される方は大変そうだな…と思った次第です。

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